毒親か虐待か犯罪か


家庭という密室のなかにいると、分からないんだよなあ。
それ、がちょっとたちの悪い『毒親』なだけなのか、『児童虐待』や『犯罪』と呼べる代物なのか。
虐待の事実の有無があるのか、本人の認識のゆがみがあって虐待と感じていただけなのか。

子供にとっては親という存在は絶対で、その親がやってきたことが虐待であったと、客観的に知り得る機会は本当に限られている。

すべての親は毒親になり得るけれども、虐待か犯罪かは客観的事実が大事になる。

(例え虐待や犯罪の客観的事実がなくても、本人が虐待を受けていたという認識や妄想を持っていれば、その認識や妄想を抱いた経緯や理由を追求する必要がある。誤解であれば解かなくてはならないから、どのみち客観的事実は大事である。妄想であるとされた場合、精神科医は統合失調症やパーソナリティー障害など本人の性格の問題にして薬漬けにするのが仕事である。)
客観的事実を治療者に話せるかどうかがとても大事。

精神科医に精神疾患と言われるくらいに心のコップがいっぱいな人は、大概、虐待以上のことは受けている。
単なる躾だと思っていて、無邪気に他人に話したことが虐待や犯罪であったりすることもある。
虐待も犯罪も、以外と身近なのだ。
少なくとも、ブラック企業やいじめよりは身近にある。
あまりにもありふれているのに、密室だから無かったことになる。
だから、日本で起こる殺人事件のうち、半数以上が家族同士の殺し合いになるのだ。

『うちはそこまで酷くない』
『わたしは○○するほど酷くはない』

ブログで心の傷を自己開示している人や、体験の手記を出版している人に対して、他人の病名や経過、容態に対してそう言うのは、冷静な判断力を封印してしまう可能性があるかも知れないと、最近考えた。

自分の方がましであると安心したいという心理が事実を歪ませることがある気がする。
このくらいの体験、この人に比べたら大したことないなんて、問題はそこじゃないんだよな。
『この人に比べたら』じゃなくて、自分が処理できるかどうかなんだよなあ。
比べることは無意味なんだよな。

心の状態の『酷さ』で勝負はできないし、私とあの人どちらが『まし』かでも勝ち負けを決めることは不可能。
一見酷い状態に見えていた人が、思いを昇華させ劇的に快復することもあるだろう。

他人の手記は自分との相違点を探すものではなく、病理を学ぶものなのかも。

心鐘の里 (こころのさと)

カウンセリング及びヒーリング。OSHO禅タロット・神々の心のタロットを用いた内観。気功・アクセスバーズ。