純粋な卜としてのタロット占い

今回の記事は占い経験者向けですので用語の詳しい説明を省略します。
一般の方々、置いていきますごめんなさい。


先日受講した神々の森神社カフェ主催、神々の心のタロット特別講座はなかなか奥が深く、その時その場に居た全員が共有したであろう感覚をどのように文章にしたら第三者に伝えることが出来るのか、とても難しく感じています。
私が改めて痛感した事は、神々の心のタロットの講師北澤先生はどこまでも静かに卜(ぼく)としてのタロットを極めようとされているのだなと云うことです。
そのストイックな姿勢はまるで仏道の修行僧にも見えますが、これは信仰というよりは探求なのだろうなと。
タロットの世界観を説明するのにたまたま今回は仏教の資料を用いたそうですが、イスラムやキリストの思想の引用でも説明可能だと仰っていたのが印象的でした。
昨今は霊感、直観、サイキックリーディングなどをタロットに取り入れている占い師さん、ヒーラーさん、セラピストさんも多いと思います。
それがいい悪いではなく、それもあり、これもあり、だと私は考えています。
ただし、北澤先生は、それらをいたずらにタロットに取り入れることは、タロットの持つ本当の力、可能性、(卜としての)タロットの純粋な気付きを弱める、又は阻害する邪魔なものだと言い切っておられます。
なるほど、このじっくりコトコト秘伝のスープを作る行列の出来るラーメン屋の店長のような頑固さが、神々の心のタロットを作り出しているのだと思いました。
流行に目もくれず敢えて純粋な「卜」に拘る。
そのぶれない探求によって、まるで仏道の悟りのようなものを得るという境地まで辿り着いてらっしゃるところに驚きました。
その気付きを、生徒である私達と、そしてクライアントさんと共有していこうということに、魂を注がれています。
この傾向は一種の男性性なのでしょうか。
余談ですが、一方で私には神々の心のタロット以外に、女性の禅タロットの師がいます。
女性性の究極は「答えを自分の中に求めること」「楽しさ、心地よさを感じること」だと私は感じています。そういったことを女性の師から受け継いだ私が神々の心のタロットに出会った理由は、自分の中の女性性と男性性の統合、バランス力の鍛練の必要性があったからだと思っています。
(なんか、先生方勝手に色々すみません…)


話を講座に戻しますと、自分は個人的に思想、哲学として仏教が好きな方なので、今回の講座はストンと入って来ました。
講座で引用されていた本を思わずKindleで買ってしまう程には(笑)

以下抜粋

"現代文訳 正法眼蔵〈1〉 (河出文庫)"(道元, 石井恭二 著)
http://a.co/4wXdljw

現成公按
(11)
人が覚りを得るのは、水に月が宿るようなものである。そのとき、水は漏れもしない、水が壊れることもない。それは広く大きな光ではあるが、ほんの少しの水にも宿り、月のすべては天のすべては草の露に宿り、一滴の水にも宿る。覚りが人を壊さないのは、月影が水を穿つことのないようなものである。一滴の水に天月のすべてが覆い妨げられることなく宿るようなものである。水に映る影の深さは天の深さと等しい。時間の長さと短さは、無量の時も一瞬の時も時であり、それは大きな水と小さな水のようなものだと考え、大きな水には大きな月と広い空が映り、小さな水には小さな月と小さな空が映るようなものだと、努めて会得しなければならない。

抜粋以上

悩んで迷っている時、その時点では、その人は自分を見れていません。悩みの中にただいるだけなのです。
「環境の中にいる自分」を何かに写し出して見た時に、はじめて自分を客観的に見ることができるのです。
その「写し出す鏡」が、水滴だったり、湖だったり、職場の環境の中の自分だったり、家庭における自分だったり、タロットカードによって作り出させる過去、現在、未来の配置そのものだったりします。
ですから、カードの意味を、いまここにカードが顕れた必然を紐解くことは、心を虚しくして自分を真摯に見つめることであり、その際に訪れた直観や閃きに頼るべきではないというのが、神々の心のタロットの流儀です。
ひたすら悩み(占的)と真摯に向き合って、きちんとクライアントと共に悩みきった後に、ふと出てくる、モヤモヤとした雲を掴むような感覚が、気付き(悟り)であり、モヤモヤと訳が分からないまま何となく扱っているうちに、いつの間にか確信へと変わり明確な答えとなる。その瞬間はクライアントとセラピスト、同時に訪れる。
そこに神秘性を見出だすのが神々の心のタロットにおける占いの在り方であって、セラピストのその日の霊感(第六感)のコンディションやクライアントとの波長や相性で占いの結果がずれるということは有り得ない。あるとすればそれは占いに対する姿勢そのものが間違っている、とのことでした。
そして、気付き(悟り)が訪れたあとは、カードの配置のすべての謎が解けます。
今の自分の悩みの正体も明らかになります。
過去、現在、未来のカードの流れは、移ろい行く諸行無常の世の中の理を現しています。

それらを静かに紐解き受け止めていくプロセスは仏教における三法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静)そのものあり、それらからもたらされるハッピーな心境が常楽我浄です。
真の客観性から現実を見据える。
そのやり方であれば自立と覚悟が生まれますから、何度占っても占っても占いに依存することはなく、セラピストとクライアントが依存関係に陥ることもないと言えるでしょう。

長くなったついでに。

先日ある友人(であると同時に人生の先輩)が、見聞を広げる為に受けたあるタロットの先生の講座の話をふと思い出しました。
その友人は、実は私がその友人の弟子になりたいくらいの経験とセンスを兼ね揃えた実力者なんです。(それでも友人と呼んでしまう私ってばなんて厚かましいんでしょう♥)

友人が受けた講座でとある先生が友人に言ったそうです。
「あなたは占的がずれている。クライアントがはじめに聞いた悩みだけに答えればいい」と。
それを聞いて、友人はモヤっとしたそうですが、私もそれを聞いてモヤっとしました。
名前も知らない方とはいえ、引き合いに出してしまって本当にごめんなさい。

占的ってズレてなんぼだと思うんです。
友人は「そんなことよりも、その人にとっての本当の問題点を見つけてあげて、笑顔になって帰ってもらう方が私は大事だと思う」と言っていて、本当にそうだと私も思いました。
特に私は神々の心のタロットを習ったから当たり前に思うのですが、悩んでいるその人は周りが一切見えていないから悩んでいるのであって、周りが見えていないその人の悩みに、そのまま答えても、それだけでは本当の悩みの解決にはなり得ません。
ズレてるから悩みになっているのですから。
本人の求める質問にだけ答えるという方法で占っても、それは解決ではなくて、依存関係の元にしかならないような気さえするのですが…これを読んだ方はどう思われるでしょうか。
敢えてそこを狙って繁盛させる目的があるならそれでもいいと思いますが、正直私はやりたくない手法です。

神々の心のタロットの場合、その人のある種の思い癖による「本人の自覚する悩み」から、「本当の悩み」に辿り着くその過程で、占的をどの程度広げるか。
先の道元の引用から表現を借りると、クライアントの未来を、水滴に映すか、コップの水に映すか、それとも湖に、大海に映すか。
そこがセラピストの匙加減にかかっているような気がします。
一事が万事とは言いますし、スケールを小さく読んでも大きく読んでも「間違い」ではないのでしょう。
だけどどうせなら、些末な事柄を悩み続けないで(悩みを軽く扱うという行為は大変失礼かも知れませんが、気付きが訪れたあとは悩みは些末な事柄となるので敢えてこう書きました)世界観を広げた方が、未来は楽しくなるような気はします。
異なる大きさ二つで読んでもいいような気さえします。
そのあたりの見解は私独自のものですのでご了承下さい。

心鐘の里 (こころのさと)

カウンセリング及びヒーリング。OSHO禅タロット・神々の心のタロットを用いた内観。気功・アクセスバーズ。