「毒親なんて居ない」「虐待なんて無かった」

私が苦手な言葉です。
虐待なんてない、毒親なんていない、とよく口にする人がいます。

うん、ていうか心理職やセラピストの、最近の流行りなんでしょうか?

やはり、幸せな人は違うんだな、と正直思います。

「自分が」結局自分の親が毒親だなんて勘違いだった。
「自分が」自分は虐待されていたなんて思い込みだった。

それは、別にいいんです。
自分が心から思える人はそれでいいんです。

確かに、あまりにも多い勘違いだし、その勘違いが勘違いであることが多いし。
虐待も毒親もあまりにも気軽に使われているし。
親も精一杯なのに、何でもかんでも虐待呼ばわりしたらやっていけない?
まあ、分かるんですけれど。

それは、その人が「自分自身が」幸せだったから言える言葉です。
若しくは、自分自身が癒えたから言える言葉です。  

実際に虐待なんてあった、なかったなんてその人が小さい頃の家庭を、霊視でもして客観的に覗きでもしない限り、解らなくないですか?
その場面だけでなく、ずーっと貼り付いて見てみなきゃ分からないじゃないですか。
子供に愛情の抱けない気の毒な親も実際にいます。

愛情の結果なら、虐待してもOK?
いや、違うだろう。
本人がどう感じたかが全てでしょう。

あのね、確かに。
どんな親でも最終的に許すことがその人の課題なんです。

例えば、虐待を受けたお陰で脳が壊れても。
体に傷が残っても。
価値観が崩壊して人生が本当に滅茶苦茶になったとしても。
それでも。
まるごと許すことで、実は楽に生きられるようになるんです。
どんな親でもです。
でもね。
それがね、本当に人によっては、死ぬより辛いことであったりするんです。
それを幸せな親子関係だった人は、ただ単に自分の勘違いを認める怖さ、辛さだと思っています。

はん、何をいじけてんの?
意地を張ってんの?と。
甘ったれるのもいい加減にしなよ。
育てて貰ったくせに上から目線で許すことが許さないとか馬鹿じゃねーの?


はい。
親から他人に言えないような犯罪的な仕打ちをされたことが無ければそう思うのも無理がないです。

親にされたことを、真実を口にすることすら恐ろしくて出来ない人間もいますよ。

少なくともここにいました。
そういう人間からしますと。
うつとか、毒親とか、虐待とか、そういうのがカジュアルファッション化して他人と群れる口実だったりする人たちと、同じに思われたら辛いなあ。
(すみません、毒親仲間と傷を舐め合う時期は必要だと思いますよ。)

確かに、甘えに見えるんでしょうが。
甘えでなくて、緊迫する真実だったりすることもあり。

親に限らず、確かに、自分に酷いことをしてきた人を許すことで、人は楽になれるんです。
それは、真理です。

だけど、気軽に言えますか?
例えば、犯罪に遭ってしまった人に、犯人を許せだなんて、気軽に言えますか。
フラッシュバックで震えるその人に、犯人を許したら楽だよと、出会って直ぐに言えますか。
てめえが犯罪被害者になってから言え。てめえが犯罪被害者になった上で、相手を心から許して楽になってから言え。
そう思いませんかね。
私は思います。

あ、でも例えば心屋さんみたいな確信犯は別ですけど。
その人が何を抱えていようが、真理は変わらないという、徹底っぷり。

過去は過去。
変えられないのです。
だから、認識を変えていくのは確かにいいと思います。

だけどね。
毒親は居ますし、虐待もありますよ。
それでも、許すんですよ。

ただ、毒親、虐待がファンタジー(思い込み)なのか、事実なのか、見分ける手間を踏んでいない状態で、話を聞く前に出会い頭に「毒親なんていない」とか言わない方が良いよなあ。


むしろ、毒親でない親などいませんよ。
無意識な虐待(教育のやりすぎを含めて)をしたことのない親も居ませんよ。

親は、子供に関わり悪影響を与えるという罪を負う任務があるんで。

実はそれが一番の親の仕事なんです。
そこから子供は学ぶんです。
それがその人の人生のテーマです。

ともあれ。
相手が虐待妄想劇を楽しんで演じているのか、本当に犯罪的な虐待を隠すために詳細を語らず「虐待を受けた」とぼやかしているのか。

そこを見誤ったら、否定すること、笑ったりすることが裏目に出るよなと思っています。

心鐘の里 (こころのさと)

カウンセリング及びヒーリング。OSHO禅タロット・神々の心のタロットを用いた内観。気功・アクセスバーズ。